東静岡1998 パチプロ回顧録

1998年~2000年までの静岡市のパチンコ屋事情を記す懐古的ブログ。
グーグルストリートビューをメインに、1998年からの静岡市の記憶を辿る。

2015年10月

今回紹介するホールは、静岡県に根を下ろした中堅チェーンのこのホール。


ABC寿町店
(改築して現在も同じ店名で営業中)


現在は改築され立派なホールになっている。

1998年当時の設置台数は、パチンコ224台とパチスロ56台の合計280台の郊外としては若干小さめのホールであった。

交換率は静岡市統一のパチンコ45個(2.27円)、スロットは5枚(等価交換)。

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この画像は1998年当時のものだが、これより2回改装か改築をしていると思う。

ハッキリ言おう。

ショボイホールであった。

出玉以前に客がほぼおらず、常連だけが屯していて閑古鳥が鳴いているようなホールであった。

パチンコなどは特に酷く、見た目から「これ、打ったらあかんやつや!」と絶叫しだすこと間違いなしのやる気の無さであった。

どのぐらいかというと、このぐらいである。

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締めすぎた釘に玉が乗ってしまうぐらいの閉めっぷりなのだ。

パチスロは幾分良いイメージがあったが、それでも粘って打とうと思えるような状況にはなかったと記憶している。

とにかく暗く汚い印象が強かったため、もしかしたら良い状況であったのを見逃していた可能性も多分にある。


2000年代に入るか入らないかぐらいで改装オープンして、それから状況が良くなってきたと記憶している。

大都技研のパチスロ参入機種「ザ マジカルニンジャ ジライヤ」を導入していたのが薄っすらと記憶にある。


車通の多い通りに面していて近隣に有力ホールもなく、近くによっても通り過ぎるか、見てもざっと歩いて回るぐらいのホールであった。

思い入れは特にない。




今まで郊外店が多めだったので、今回は静岡市の繁華街のこのホールを紹介する。

TOYO紺屋町店
(閉店年度不明)


静岡市の中心部にあったホールである。

いつの間にか閉店していたようだ。

1998年当時の設置台数は、パチンコ248台とパチスロ54台の合計302台の中規模店。

もはやテンプレ化しているが、交換率は当時統一されていたパチンコ45個(2.27円)、スロットは5枚(等価交換)。


繁華街にあるホールで、近隣には銀座会館本店(現コンコルド紺屋町店1)と銀座会館別館(現コンコルド紺屋町店2)があった。

その他にも複数のホールが密集していたため、それらのホールを一つのグループとして立ち回りをしていた。

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これが当時の外観である。

奥に長いホールで、繁華街なりの狭い空間に押し込められるように客が入っていたように記憶している。

正直なところ出玉的にそれほど期待できるものがなく、近隣ホールのほうが状況が良いことが多かったので、念のためチェックはしていて、新台入れ替えで新機種が入った時に行くか、近隣の開店待ちに時間をつぶすようなホールであった。


若い子が少なく、爺さん婆さん、おじさんおばさんがのんびり打っているような、ほのぼのとしたホールであったように思う。

なので特に思い入れはないホールである。

このホールの記憶はあまりない。

 

2ヶ月ぶりの更新となる。

さすがにこれだけ間を空けてはまずいので、次回は善処しようと思う。

今回紹介するホールは、前回より再び静岡市(前回も静岡市だったが、当時は清水市だったので)に戻って、今はなきホールを紹介する。

マルハン長沼店
(2000年代前半に閉店して今は更地)


2000年代前半に閉店撤退したホールである。

マルハンは完全撤退ということは少なく、移転か店舗統合などをすることが多いが、この店舗に限っては完全に撤退をした。

おそらくは中央分離帯のある国道1号線なので、下り車線からしか出入りできない不便性もあって客が集まらなかったということも原因にあるだろう。

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これが当時のマルハン長沼店の外観である。

いま見ても違和感の少ない、当時のパチンコホールの外観としては先進的なデザインのホールであったと思う。

1998年当時の設置台数は、パチンコ168台パチスロ122台の合計290台で、当時としては典型的な郊外型の中型店舗であった。

交換率は当時の静岡で統一されていた、パチンコ45個(2.27円)、スロットは5枚(等価交換)。


このホールがお客で混みあったという記憶はない。

とにかく立地のためかお客が集まらないので、比較的設定に甘さがあったり、日によって交換率を変えて設定を上げてくれていたりと、トリッキーな営業をしていた覚えがある。

店員がお客を周り、「今日は6枚交換ですよ」などと耳打ちをして回っていたのが何とも珍しかった。

そんなわけなので他のマルハンと比べて店員もフレンドリーで、店長?かそれに次ぐような方とたまに世間話などをしたものだった。


だがやはり立地が問題だった。

自転車で移動するにも陸橋を遠回りしてこなくてはいけなかったし、車は一度下り線に戻らなければ入れず、上りに戻りたい場合も手間であった。

歩きにしても駅を挟むので近隣店舗から10分程度歩かねばならず、かと言ってまた移動するにはまた10分程度かかるなど、立地の不便性は明白であった。

ただし、そういう理由でもマルハンという企業が存続させているホールだけあって、穴場的なホールであったとも言えたと思う。


このホールの駐車場の敷地内には大きな焼肉店(?)があった。

私は一度も立ち寄らなかったが、そこはマルハンが営業していたのだろうか。

立地と業種の類似性があるので恐らくそうだろうが、当時はマルハン=韓国出の方の企業という概念は持ち合わせていなかったので、これは今ながらなるほどと納得してしまうのである。




新台入替二日目にして閑古鳥の泣いた「バイオメサイア」に陣取り、ループされる煽りBGMと、黒くて図柄の把握しづらいリールに四苦八苦し、小さなドル箱に一生懸命コインを縦積みにしていたあの頃が、この場所を通り過ぎる度に、当時のホールで流れていたBGMと共によみがえるのである。





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